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episode7 しんのうちょう new

 正臣はパソコンをやっていた手を止め、視線を壁にやった。
 三時前。そろそろ行くか。
 契約ビルの設備巡回へ行かねばならない。
 パソコンをスリープにしたところで電話が鳴った。
「今どこだ?」
 電話口に調べものがあると朝から出かけた慶一の声が聞こえた。
「バビロニアですけど」
「車で迎えに来てくれ」
「いやです。今から巡回行くんで自分で帰ってきてください」
「携帯は忘れて財布は落とした」
 正臣はソファ横のサイドテーブルを見る。携帯が置きっぱなしになっていた。
「今、公衆電話ですか?」
「ああ」
「電話するお金はどうしたんです?」
「ポケットにいつも百円いれてる」
 千円くらい入れておけば電車で帰ってこれるだろ、と思ったが口には出さない。
「わかりましたよ。今どこです?」
 巡回前に拾ってやるしかない。
「え? そうだな」
 見回しているのか、がさがさと音が聞こえる。
「しんのうちょうってとこだ」
「しんのうちょう?」
 親王町? 聞き覚えがない。
「東京ですよね?」
「あたりまえだ」
「最寄駅は?」
「ないな。あ、線路が……今、銀色の電車が通った」
「電車はだいたい銀色です」
「そうか?」
「何年東京いるんです? いいかげん地名とか覚えてくださいよ」
 慶一の小さな舌打ちが聞こえる。
「よくその状況で舌打ちできますよね? 迎えにいかないと今決めましたよ」
「待て」
「交番でお金借りるなり、タクシーで乗り逃げを疑われながら戻ってください。じゃ」
 携帯を耳から離しかけたところで「焼肉だ」と聞こえた。

「もう一度」
「今夜は焼肉に行こうと思ってる。厚切りのタンとかロースとか、お前好きだったよな」
「……それで? 他に場所の手がかりは?」
「手がかり? ない。焼肉食う気あんのか? 大体なんでお前しんのうちょうがわからないんだ」
 声を上げそうになったが、今夜のために心の手綱を握り直す。
「いいですか、俺のせいにする前に。
 ……とりあえず漢字教えてください。しんのうちょうってどう書くんです?」
「信じるに濃い町」
「……まさか信濃町(しなのまち)ですか」
「あ?」
「本当に何年いるんです?
 道路も、路線も、地名もなんにも覚えないじゃないですか」
「黙れ。それでわかったのか」
「だから信濃町ですよ。信濃町駅が近くにあるんでそれぐらいは探してください。駅に迎えに行きます。じゃ」
「おい、待て。駅って――」
 電話を切った正臣は、玄関棚から車のキーをとって部屋を出た。
 よぉし、今夜は食う。

​ ちょっと楽しくなってきた。