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episode4 半分

 佐々木正臣は、オフィスの壁に取り付けられた無機質な鉄扉を開けて出た。

 電気室の点検が終わり、小さく息を吐く。

 出た場所は、オフィスの休憩室。

 丸テーブルが並ぶ中、目の前に女性が一人座って待っていた。

「佐々木さん、お疲れ様でした。こちらどうぞ。今コーヒー出しますから」

 そう言って正臣を対面の席に座らせると、彼女は立ち上がり給湯室へ入った。

 

 ここは三軒茶屋にある十階建てのオフィスビルであり、契約ビルの一つだ。

 毎月、電気設備の月次点検でビルを回っており、いつも彼女が電気室までの鍵開けをしてくれる。

 そして、数ある契約ビルの中で、彼女だけが点検終わりにコーヒーを出してくれる。

 

 コーヒーを二つ持ってきた彼女に、正臣は頭を下げる。

「いつもすいません」

「午後は余裕がありますから」

 そう言って彼女は、遠田香菜子は笑ってくれた。

 いつもはコーヒーを置いたら出ていくのだが、今日はつきあってくれるらしい。

 年齢を訊ねたことはない。二十代中ごろだろうか。

 綺麗な笑い方をする人だと正臣は思う。

 その笑顔は陶磁のような白い肌によく映える。

 

「佐々木さんの会社はどこにあるんですか?」

 一口飲んだところで遠田が聞いてきた。

「原宿です」

「原宿なんですか。いいですね」

 彼女の笑い顔に、正臣も笑顔を作る。

 あまり下手に出すぎないように。

「三軒茶屋もいい街ですよね」

 好意がある相手には、つい下手になってしまうのが自分のいけない癖だとわかっている。

 それでいつも失敗する。

「ええ、ここもいい店多いですよ。原宿ってランチに代々木公園とかすごくよさそうですよね。近くですか?」

 遠田は屈託ない笑顔で聞いてくる。

「窓から見えますよ」

 ちょっと自慢気に言ってしまう。

「へぇ、本当によさそうなところですね」

「駅前ですから。っていってもうちは小さな会社なんでマンションの一室ですけど」

「駅前のマンションってまさか、コープバビロニアじゃないですよね?」

「え、はい。そこです。ご存じなんですか」

「あそこってヴィンテージマンションで有名じゃないですか」

「あー、らしいですね。たまたまうちの社長がそこのマンションを持ってて、住居兼事務所なんです」

 この話になると、相手の頭に疑問符がつくのがわかる。

 なぜそんなところに電気設備保守会社の事務所が? という単純な疑問だ。

 予想される売上と家賃の相場が合わないのだ。

 正臣も理由を知っているわけではなく、話が尻つぼみになるので、いつも妙な空気になる。

 彼女とは、そんな空気になりたくなかった。

 正臣は話を変えようと少し焦って言った。

 

「あ、あの」

「はい」

「遠田さんは彼氏とかはいるんですか?」

 一番したくて、一番してはいけない質問をしてしまった。

「いないですねー」

 気にした様子もなく遠田はほがらかに答えた。

「ああ、そうですか」

 歓喜が声に出そうになるのをこらえていると、

「待ってる人はいますけどね」と言われた。

「ああ、そうですか」

 声が裏返らないように必死に調整する。

 動揺を悟られたくない。

 すぐに質問を重ねた。

「えっと、遠距離って意味ですか?」

「いえ、違います」

 正臣は動揺しながら、よくわからず首を傾げた。

「私が勝手に待ってるだけです」

 遠田が少し顔を赤らめるのがわかった。

 正臣は、かわいらしい彼女の顔を見つめながら思った。

 かなりの美人だと思う。なにがあったんだろう。

 遠田はなにか思い出すように顔をあげた。

 たぶんのその相手だ。

 その表情から、彼女にとって心から大事な人だとわかった。

 

 隙間なんてないな。

 その顔を見ていると、自然と納得できて正臣は落ち着きを取り戻せた。

「どんな人ですか?」

 散ってしまえば、もう聞きにくいことはない。

 正臣は半ばやけくその勢いで聞いた。

「どんな人?」

「その相手、待ち人です」

「んー」と遠田はしばし考え、「半分ない人、ですかね」と答えた。

「え? 半分?」

 正臣はわからない、という顔で聞き返した。

「どういう意味です?」

「そういう私も半分ないけど……」

 遠田はひとりごとのようにつぶやいた。

「え? 遠田さんのなにが半分ないんですか?」

 まったく意味がわからなかった。

 口に出したつもりはなかったのか、「あ」と遠田は驚いたような顔をした。

 そして左ほほをこすり、なにかを言いかける。

 が結局、口を開かなかった。

 心からすまなそうな顔をする。

「ごめんなさい。言わないほうがお互いのためにいいです。中途半端にしちゃって本当にごめんなさい」

「ああ、いえ……」

「あの、コープバビロニアって実際に住んでみるとどうですか」

 遠田が話を変えた。

「あ、いや僕は住んでるわけではないんで……」

 微妙な雰囲気のまま会話が進んでいく。

 

 ビルを出た正臣は、高い空を見上げた。

 乾いた笑いが出る。

 小さな恋心が笑い声にのって空に上がっていくのが見えた気がした。

 

※遠田香菜子は『経眼窩式』の主人公。