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episode3

 臭い。

 佐々木正臣はコープバビロニアのドアを開けた瞬間に、眉をひそめた。

 異臭が鼻をつく。

 

 玄関からリビングへ続く廊下には、通販の残骸というべき空の段ボールのいくつも転がっている。

 そういえば、ここ一週間、新本慶一が狂ったようにホームページを漁っていたことを思い出した。

 

 段ボールを跨ぎリビングに入ると、塗料の瓶が100個近くあるのが見えた。

 商品陳列かと思うぐらいの量で、専用ラックに収められている。

 その隣であぐらをかいた慶一が細い体を折り曲げなにかをいじっている。

 

 脇の間からちらりと、戦車の模型らしきものが見えた。

 それで納得がいった。

 十日ほど前、正臣が観ていた「フューリー」という戦争映画を慶一が横目で見ていたことがあった。

 それからパソコンにかじりついて調べていると思ったらこれだ。

 映画で敵役として出ていたドイツのティーガーと呼ばれていた戦車。それを調べまくっていた。

 

 正臣は溜め息を吐き、バッグをソファにおろす。

「おはようございます、慶一さん」

 二人しかいないとはいえ、ここはオフィスでもある。

 出勤した社員の目の前で、朝っぱらから戦車づくりに没頭する社長に正臣は挨拶した。

「なにか飲みます?」

「いらん」

 

 慶一は細い腕を伸ばし、床に広げてある本をめくる。

 正臣には目もくれず、ディティールアップと銘打った大判のフルカラーページを凝視している。

 他にもティーガーの歴史やら、パーフェクトブック、初期型、戦車隊といったタイトルの本が床に散乱していた。

 

 オープンキッチンでコーヒーの用意をしていると、慶一が立ち上がり、なにかを口元に装着し始めた。

 マスク、というよりガスマスクのようなものをつけている。

「なに始めるんです?」

「塗るんだよ」

 

 慶一が指差した窓を見ると、少し隙間が開けられてパイプが繋がっている。

 パイプをたどると、箱のようなものがあり、その隣に何かの機械が置いてある。

「ちゃんと廃棄ダクトもつけたしな」

 箱の前に腰を下ろし、機械のスイッチを入れると、低いモーター音が聞こえてきた。

 続けてプシュという圧縮した空気を吐き出す音。

 慶一は板金屋が車の塗装で使うようなエアブラシを手にしていた。

 箱の中で戦車の塗装を始めた。

 

 正臣は冷めた目で慶一の背中を見つめた。

 正臣は知っている。

 この戦車の模型が完成したら、慶一はこの塗装道具一切を売ってしまうか、捨てるのだ。

 慶一の興味は、鉄のように熱く、水をかけたように瞬時に冷める。

 

「慶一さん、コーヒー飲みます?」

 一時間後、書類整理がひと段落した正臣はパソコンを閉じて、声をかけた。

 慶一は一切の無駄口をたたかず、戦車の塗装に全力を注いでいた。

 社長の特権ともいえる。

「頼む」

 そう答えると慶一は床に大の字になった。

 全身を伸ばし「あああ」とあくびとも叫びともつかない声をあげる。

 

 コーヒーを淹れてテーブルに置くと、慶一も席につく。

 コーヒーのお供に、リンツのチョコを出した。

「ここのうまいですよ」

 原宿にはチョコレート専門店が多い。

 最近のお気に入りの店だった。

 

 包みを開け、一口入れた慶一は、もぐもぐとしながらなんとも言えない顔をした。

「アーモンドとかピーナッツが入ってないな」

「楽しむところはそういうところじゃないんですよ」

「カリっとしてなきゃな」

 そう言うと二つ目には手をつけなかった。

 正臣はおいしさの共有をあきらめ、自分だけで楽しむことにした。

 優しく口どけながら舌にのるコクと甘さの切れがたまらない。

 

 一方、慶一は遠い目をしてコーヒーを飲んで言った。

「がんばったあとのコーヒーはうまいな」

 なにをがんばったんだと思いながら、正臣は聞いた。

「どうせ、あの戦車作ったら道具は全部捨てるんでしょ。塗るまでしなくてもいいじゃないですか」

「塗装は化粧みたいなもんだ」

「はい?」

「化粧水に乳液、コンシーラー、ファンデーション、アイシャドウにチークと口紅」

「はぁ……」

「それを模型で言えば、グレーサフで表面のムラを整え、パテで気泡や傷を消し、白サフで下地を作る。

 それから塗装に入っていくわけだ」

 正臣は、目を細めて慶一を見つめた。

「なんだ?」

「それ受け売りでしょ。調べててそんなのが出てきた」

 慶一は答えず、黙ってコーヒーを飲んだ。

「どっちでもいいですけど、あれだけ道具買ったのなら、捨てるのはせめて十台は作ってからにしてください」

「別に1台なんて決めてない。飽きなきゃ続ける」

 熱中しては速攻で飽きていくのを何度も見ている正臣としては、とても信じられない。

「おまえもな」

「なんです?」

「人生は楽しんだ方がいいぞ。筋トレばっかしてないで」

「いいんです」

「そりゃ、お前の自由だ。俺が自由なようにな」

「違います」

「あ?」

「俺は筋トレだけじゃないですよ。慶一さんの不毛な生き方を見て楽しんでます」

 慶一は瓜のような無表情で、正臣を見返した。