陰影を濃く彩る。夏の光。

 佐々木正臣は、マンションの一室でぼんやりと床を見つめていた。

 木目に映る、光と影が作る強いコントラストは、本当に美しいと思う。

 

 逃避していた事実に、眉間をつまむ。

 正臣はみっしりと筋肉のついた両腕を伸ばし、大きく息を吸った。

 

 コーヒーカップに手を伸ばす。

 近いうち、この古くなってきたノートパソコンを新しくしてもらおう。

 画面もキーボートも小さすぎて、大柄な正臣には操作しづらくてしょうがなかった。

 

 肩をもみながら窓の外に目をやる。

 入道雲に明治神宮の緑がよく映えていた。

 

 さあやろう。

 パソコンに向き直る。

 数字の並んだ画面を見つつ、カップを口につけたところに、光を遮る影が入った。

 視線を上げると、ボクサーパンツによれよれのTシャツの男。

 

「来てたのか」

 昼過ぎに起きてきてのうのうと言った。

 

 寝室で寝ていた新本慶一だった。

 冷蔵庫からカップを取り出すと、柳のような細い脚でゆらゆら歩き、窓際に置かれたソファに足を乗せる。

 

 彼は正臣の上司だった。

 そして二人しかいない会社のため、社長でもある。

 

 慶一が三十歳、正臣二十五歳の若い会社で、二人の仕事はビルの電気設備管理だ。

 いくつもの小さな雑居ビルと契約を結び、法定点検などを請け負う。

 正臣は月末提出の書類整理をやっているところだった。

 

 ソファに片足をかけた慶一はひょいとソファの上に立った。

 窓の外を見下ろす。

 

 正臣からは見えないが、窓下には人の群れが広がっているはずだ。

 このマンションは、原宿駅の目の前に建っている。

 名をコープバビロニアという。

 前東京オリンピックが開催された年に建設された高級マンション。

 築年数はかなりものだが、その立地のよさとデザイン性の高さからヴィンテージマンションとして今も異彩を放っている。

 

 慶一は、その気味の悪いくらいの端正な横顔で外を見つめ、手にしていたカップを持ち上げた。

 ストローを口元にやる。ブラックタピオカ入りのミルクティー。

 二週間くらい前からはまり始め、一日にダース単位で飲んでいる。

 

 喉を上下させた慶一は、唇から舌を出す。

 舌先にブラックタピオカ乗せている。

「慶一さん、気持ち悪いんでやめてください」

 正臣が言うと舌先をひっこめ、わずかに顔を傾けて視線をやる。

 同性でもぞくりとする顔立ち。

 ゆっくりとタピオカを噛み締める。その顎の動きまでに、色気があるのが余計に気持ち悪い。

「別にお前に見せてるわけじゃない」

 そう言って慶一は視線を窓外へ戻した。

 正臣は短い溜息を吐き、無視して事務処理に集中することにした。

 

 しばらくすると、慶一が声を上げた。

「なんだこれ」

 顔を上げると、ローテーブルに置いていたビニール袋に目を向けている。

「シャンプーですよ」

 ここは慶一の自宅であり、事務所でもある。

 正臣も時折、シャワーを使う。

 シャンプーも消耗品費として処理するので、正臣が買い足していた。

 

 袋に手を入れ、慶一はシャンプーとコンディショナーを取り出す。

「この小さい方は?」

 旅行用として売っていた小さなシャンプーとコンディショナーのセットだった。

「そろそろ違うシャンプーに替えたいと思って、試しに買ってみたんです」

 

 慶一は黙ってシャンプーを見つめる。

「そんな高いものじゃないですよ?」

 いつもは口うるさくないのに、と正臣はいぶかしげに聞いた。

 

 慶一はミニチュアのようなシャンプーの頭の部分を親指で撫でながら言った。

「こんな小さなシャンプーにも、シャンプーロマンスがあるんだな……」

「え? なんです、それ?」

 

 その意味ありげな微笑に、正臣は目を細める。

「……またくだらない話でしょ」

 慶一は嘘か本当かわからない、妙な話をよく知っている。

「いい話だけどな」

 シャンプーを頭上に持ち上げ、夏の日差しに向ける。

 長くなりそうな予感がした。

「いや、いいです」

 正臣は直感に従い、視線をパソコンに落とした。

 

 視界の端で、慶一が感慨深げにシャンプーを手にしたまま、原宿の街並みに視線を戻すのがわかった。

 細い顎を動かし、タピオカをゆっくりと咀嚼する。

 話したくてたまらないというわけではないらしい。

 

 正臣はパソコンの画面に集中しようとする。

 しかし、慶一の微かな動きが気になる。

 わずかに視線をあげると、慶一は小さなシャンプーボトルを手に、

 なにかを思い出すようにボトルの頭を撫で、窓の外を見つめている。

 うざったい。

 もう一度気合いをいれて、画面に集中した。

 

 長い五分が経った。

「で、なんなんです?」

 折れた正臣に、慶一がゆっくりとこちらをむく。薄笑いが腹立たしい。

「忙しいんです。手短に言ってください」

 正臣はキーボードを叩きながら言った。

 ビニール袋を手に取り、慶一は対面に座る。

「見てみろ」

 手にしていた小さなシャンプーの頭の部分を正臣に向ける。

「突起がついているのがわかるか?」

 確かにプラスチックの蓋の先端には、丸い突起がある。

「こっちはどうだ?」

 今度はコンディショナーのボトルの頭を見せる。

 シャンプーの頭にあった突起が、コンディショナーにはなかった。

「これがなんなんです?」

「目で確認しなくても、手で触ればシャンプーとコンディショナーの見分けがつくだろ」

「まぁ」と正臣は小さくうなずいた。

「これはどこのメーカーでも同じだ。コンディショナーに突起をつけることはない」

 へぇ、と開きかけた口をすぼめ、「だからどうしたんです?」と聞き返した。

「広がらないか」

「はぁ?」

「ここから始まる物語が、お前には想像できないのか」

「ぜんぜん」

 

「この突起はな。最初はなかったんだ」

 指先で突起をこつこつと叩く。

「ある男の話だ。

 シャンプーや化粧品などを扱う日用品メーカーに勤めていたその男は、よく苦情を聞いた。

 髪を濡らして目が開けられない時、シャンプーを手に取ったつもりが、コンディショナーだったときの失望感たるやってな」

「大げさじゃないですか?」

「その男自身、奥さんからシャンプーとコンディショナーってまちがえちゃうとよく愚痴を聞いた」

 言いたいことがぼんやり見えてきた正臣は、パソコンから目を外した。

 

「男は商機を見逃さなかった。自社の開発部にかけ合った。

 見えなくてもシャンプーとコンディショナーの違いがわかる方法を! とな。

 半年後その思いは達せられた」

 目を見開いた慶一は両肩を上げ、正臣を見る。

 

「それがこのシャンプーの突起の始まりだ。

 男が働く会社が販売するシャンプーとコンディショナーは、目をつぶっていても区別がつくようになった。

 だが、男の思いはそれだけでは止まらなかった。この世のあまねくシャンプーに突起を。そう考えたんだ。

 それはもうビジネスじゃない。純粋に消費者のためになると思ったんだろう。

 男はシャンプーとコンディショナーを製造している会社の大小を問わず、まわれる限りの会社を訪ねてまわった。

 シャンプーに突起をつけることの利便性を必死に説いてまわったんだ……」

 

 慶一の熱のこもった話に、正臣のキーボードの手は完全に止まっていた。

「十年の歳月が過ぎた。

 結果、日本で売られているほぼ全てのシャンプーに突起がつくようになった。

 確かにこれは、そんな大きな話じゃない。

 それでも目が開けられずシャンプーとコンディショナーの区別がつかないという哀れな状況は、日本から消えた。

 一人の男の思いがそれを実現させた。

 この一連の出来事がシャンプーロマンスだ」

 

「……それって何かの本でも読んだんですか?」

「いや」

「テレビとか?」

「なに言ってんるんだお前? さっき言ったろ。広がらないかって?」

 

 慶一の言葉の意味を理解するにつれ、正臣は眉間にしわを寄せた。

「まさか全部妄想なんですか?」

「あ?」

「半年間とか10年の歳月とか妙にはっきりしたことまで言っといて……」

「失礼なこというな。ブランドを超えてシャンプーに突起があるのは事実だ。

 小さな話の食い違いがあるとしても、シャンプーロマンスのような話があっても不思議じゃないだろうが」

「……そのシャンプーロマンスっていう言葉も慶一さんが?」

「ああ、そうだな」

 時間を捨てるとは、まさにこのことだった。

 正臣は大きく深呼吸して苛立ちを沈め、心からパソコンへ向き直った。

 

「無視するな」などと言っていた慶一だったが、

 そのうち口をへの字に曲げて立ち上がり、ソファに寝転ぶのが目の端に見えた。

 正臣は小さなキーボードを叩きながら、午後に新しいパソコンを買わせることを決意した。

episode1 シャンプーロマンス

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